隅谷三喜男先生の「志」


 隅谷三喜男先生に初めてお目にかかったのは、成田空港問題シンポジウムの準備が始まった頃だった。あとから知ったのだが、その5年ほど前に先生はガンの手術を受けておられた。それを機に多くの社会的活動から身を退かれてきたが、そういう時期に新しくシンポのお仕事を受けていただいたのだ。なかなか大変な仕事ということを十分認識されながらのことであった。
 それほどまでに強く先生をつき動かしたものは何だったのか。日本現代史の悲劇とも言うべき成田空港問題に、「社会的正義」の立場から解決の道を見出すこと、そこに先生の社会的活動の総仕上げの意味をこめようとされたからではなかったか。
 戦中戦後の日本社会を、社会科学の学徒として、また父君の信仰を引き継がれたキリスト教徒として、深い思いで眺めてこられた先生が、成田空港問題に現代日本社会の病根を認め、その解決を通じて正しい軌道に乗せることに先生の余生を賭けることとなさった。
 だから、シンポ・円卓を通じて先生の発せられたお言葉、展開された行動のすみずみにまで、激烈な情熱のほとばしりを感じ取ったのは私だけではあるまい。その壮大なドラマに何らかの形でかかわったすべての人たちが、その立場の違いを越えて共感し、苦悩し、よき解決の道を求めて彷徨した。海図なき航海を続ける私たちのうしろに、先生の熱誠が焔をあげて燃え、妥協を許さぬ厳しい眼ざしが光った。
 困難な課題に直面しても、「足して2で割るような解決はしない」と言っておられた先生は、納得のいくまで手間ひまを惜しまず耳を傾け、論議を重ね、それらの積み重ねの上に決然たる判断を下すという姿勢を崩されることは全くなかった。
 その象徴的なものが、土地収用法による事業認定の効力問題であった。これはまさに最高裁ものの難問である。先生は法の解釈論とそのよって立つ社会の実体論とを比較考量して、後者の観点に立った判断を下された。それは先生の信仰・学識・勇気の三拍子揃った偉大な人格の賜物であったと思う。
 発足後8年余りを数える共生委員会は隅谷調査団の唯一正統の後継者である。その間の共生委員会の皆様のご苦労と成果を高く評価するとともに、共生委員会創業の精神と基本的枠組みを堅持することこそが、成田にその余生を捧げた隅谷三喜男先生の御思に報いる道である。私たちの困難はなお続くであろうが、先生から頂いた「志」の下に私たちの智慧と力と思いを結集して頑張りたい。




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