芝山町菱田中郷地区は、平行滑走路直下に位置するため、今から10年前、1995年(平成7年)に多くが集団移転しました。移転先は、旧集落から1kmほど北東に寄った所にあり、「梅之木」と呼ばれています。
 中郷では、当時、23戸あった家のうち10戸がこの梅之木に集団移転し、のちに梅之木近くに移転した家、そのまま中郷に住む家などを含めて13戸が集落としての付き合いをしているということです。10戸は町内外へ個別移転しました。
 
 8月24日、共生委員会では、集団移転したお一人、鹿嶋秀志さんを訪ね、当時のことや現在の暮らしについて伺いました。 
Q ミヤシタという屋号だそうですね。
A はい、なぜミヤシタと呼ぶようになったのか、それは単純で、お宮の下に我が家があったから。ところが、子供たちはそのことを知りません。村の歴史とともに、こういうこともきちんと話し伝えなければと思っています。
鹿嶋秀志さん(右)と話を伺った共生委員のみなさん

Q 移転して暮らし心地はいかがですか。
A 引っ越しは大変でしたが、移転して3年くらいで落ち着いてきました。
 以前は、家の前に田圃があり、山に囲まれていたので、夏は涼しく冬は暖かく、住むのにはとてもいい所でした。今の住まいは台地にあるため、風に直撃されて砂ぼこりに悩まされています。住めば都になりましたが。

Q 航空機の騒音はいかがですか。
A ここは隣接地区ですが、道1本むこうは防止地区。暫定平行滑走路が供用してからは、ときどきテレビの音が聞こえなくなるなどの現象が起きています。曇っている日は相当うるさいですね。

Q 集団移転をまとめるのは大変でしたか。
A 各家々でいろんな顔があって、話をまとめるのは、本当に大変だったと思います。親父たちの代でやってくれまして、現在は、その次の世代が親父となっているので、当時のことを知っているのは少ないです。私は、家の事情でその話し合いに出ていました。どの場所に移るかについては、はじめから、うちはここでいいよと言ってくれた家もありましたが、主にくじ引きで決めました。移るについては、造成に費用がかかって、工面が大変でした。

Q 移転して仕事面での変化はありましたか。
A 10戸はもともと農家でしたが、専業は当時でもすでに3戸しかありませんでした。兼業は時代の流れだと思います。
 今は、空港がきて勤め口ができたことで、町外へ勤めに行かなくてもよくなった。50代、60代でも勤めに出られるのは、空港のおかげではないでしょうか。
 我が家は通勤農業をやっています。遠くに移転した家は、畑や山も買ってもらったケースがありますが、うちは、通いでやれるだろうということで、買ってはもらえなかった。畑が家のそばにないというのは、やはり大変です。

Q 付き合いは変わりましたか。
A いろんな話し合いを経験したせいか、それぞれの考えがわかるようになり、今ではしっくりきているし、13戸の結束は、移転前よりもずっと強くなった。集団移転はいい選択だったと思っています。

Q 今後、この地域はどのようになると思いますか。
A このまま続いていくんだなあという感触があります。
 今日は鎮守の森で子供たちの奉納相撲大会がおこなわれています。
 菱田の盆踊り(菱田祭り)は、昔、新盆の家に行って夜通し踊って魂を送る行事だったものを復活したようなものです。菱田地区の祭りとして、10年程前から続けています。
 

 

・・・ 滑河山龍正院 ・・・


 龍正院は、坂東33ヵ所観音霊場の第28番札所として滑河観音の名で親しまれています。
 平安時代初期の承和5年(838年)慈覚大師の開基と伝えられ、鬼怒川(現在の利根川)の一支流たる小田川の朝日ヶ淵より、一老僧が衣を網にして曳いたところ観音様が出現されたといわれています。延命、安産・子育て、災難よけの「十一面観世音菩薩」を本尊とし、春秋の礼拝シーズンには観光バスが連なります。
 境内にある仁王門は国の重要文化財に指定されており、本堂は天井に天女の絵や欄間の透かし彫りがある八間四面の広壮な建物で、千葉県有形文化財に指定されています。また、しもふさ七福神めぐりの寺院の1つとして、悪霊退散と福財の神「毘沙門天」をお祀りしているほか、ボケを封じる道祖神などの新しい石仏も参詣者から好評を得ています。
 毎年8月9日には、龍正院の境内で「四万八千日(しまんはっせんにち)」という夜祭が行われ、この日にお参りすると4万8千回お参りしたのと同じご利益があるといわれています。また、この日を別名「ほおずき市」ともいい、境内は近郷近在からの参詣者でにぎわいます。
 下総町について詳しくお知りになりたい方は、町ホームページをご覧ください。
 http://www.town.shimofusa.chiba.jp/
(表紙は、 龍正院仁王門)



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